道 (1954、イタリア、原題:La Strada)

注:ストーリーの結末に触れています。

 

昨日NHK BSPプレミアムシネマで観ました。テレビ放送なのに字幕とは珍しい、と思ったらなんと日本語吹き替え音源は権利元が紛失したためないそうです*1。日本語吹き替えは小松方正(ザンパノ)、市原悦子(ジェルソミーナ)、愛川欽也(イル・マット)という顔触れだったそうでもう二度と聞けないのは残念です。

不朽の名作や往年の名画と言われる作品が不朽である所以がほんの少しわかったような気がします。

 

作品名がひとこと「道」というのはどういう意味が込められているのか。最近は映画に限らず小説でも作品名の理由を考えるようになりました。

終盤、酔っ払ってバールで暴れ、追い出されたザンパノが“solo! solo!”と叫ぶシーンがとても印象的でした。字幕では「ひとりだ!(友だちなんかいない、と続きます)」と訳されていてそのままといえばそうですが、ジェルソミーナの存在感が増す台詞だと感じました。ザンパノは孤独です。古い知り合いっぽいイル・マットを殴って死なせてしまい、その結果「結婚してもいいくらい」とまで言ってくれたジェルソミーナは抜け殻のようになり、ザンパノは眠っているジェルソミーナに毛布をかけ彼女のラッパとともに置き去りにしてバイクを押し静かに去っていきます。ジェルソミーナがいなくても大道芸人をやってひとり食べていくには困らなかったでしょう。のちに小さなサーカス団のようなところのメンバーになったようです。そんな生活の中でザンパノはジェルソミーナのことを忘れていたのか心のどこかで覚えていたのか。

彼が海辺でジェラートを食べているとジェルソミーナがラッパで吹いていたメロディを歌う女性がいました。その曲はどこで知ったのか尋ねると何年も前に保護した大道芸人の女がラッパで吹いていた。彼女は自分のことを何も語らず、ある朝眠ったまま死んでいたと。ずっとずっと前に自分が大道芸を教え、ずっと前にラッパと共に置いて別れたジェルソミーナ。彼女の最期の地にザンパノは来ていました。

一緒に旅をしていた頃、ジェルソミーナはザンパノにとってていのいい手伝い役でしかなかったかもしれない。イル・マットと出会い、ザンパノから逃げようとしたこともあった。でもバイクで2人で旅をしていました。自分が捨てたジェルソミーナがもうこの世にいないことを悟ったザンパノの“solo!”には、自分はずっとひとりだった、ひとりで生きてきたじゃないか何を今更、ふたりの生活がなんだったんだと言っているように聞こえます。バールの前で叫びながらひとしきり暴れたザンパノがよろよろと海辺にやってきて号泣するシーンでFineと作品は終わります。

友だちがなんだと言っているので信頼とか心を開くとか、そういう存在はザンパノの周囲にいなかったようです。でも孤独でもなくひとりでもない時期が彼の人生にいっときあったことが示唆される台詞だと思いました。

 

 

映画館が苦手なので午後ローくらいでしかあまり映画を観ません。好きなジャンルはホラー(ヒッチコックの後味悪いやつ)とか、ドッカンドッカン爆破しまくる派手なやつとかです。あと近年シャレにならなくなりつつある地球滅亡の危機パニック映画も好き。でも50年以上前の作品も少しずつ観ていきたいと思います。

BSでは映画以外に2時間ドラマの再放送も多く、サブスク契約してなくても結構楽しめる今日このごろ。テレ東では土曜日に寅さんシリーズをやっているのでだいたい毎週観てます。寅さんはたぶん何周目かで、釣りバカシリーズと隔年放送している気がする。